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2013.04.05

連載☆明るい介護⑤【母の持病その2】

私の両親の介護を通して

私が感じていること、

親がただあるだけで教えてくれることを

綴っていきます。

いま、導入部分を連載中。

ずっと母は控えめでおとなしい人だと思っていた。

祖母の亡くなる前は

2歳の私を背負って看病し、

お姑さんでありながら

最期は母を頼りにしていたと聞いた。

小さい私は「私のほうが先!」と

祖母の顔を洗ったり、歯を磨いたりを手伝う母を困らせていたそうだ。

商売をしながら・・・

自分の子供や集団就職してきた子供の子育てをしながら・・・

看病をしながら・・・

決して弱音を吐くこともなく

父は家にいることも少なかったし

父に逆らうこともなく、

僅かに持っていて借家の「たなこ」さんにも逆らわず・・・

とにかく真面目に一生懸命生きていた。

楽しみは洋裁。

私の遠足の日の前の夜に

いつも夜なべしてかわいい洋服を作ってくれた。

遠足の朝には

いつも子供雑誌から抜け出たような新品の洋服が揃えてあった。

両親は仲が良かった。

本当に仲が良かったが

喧嘩をしたことがなかったのは

母が父に逆らうことがなかったからだったかもしれないと今思う。

ひょっとしたら

私は無意識のうちに

母と同じ目線で父の顔色を伺っていたのかもしれない。

一方で母の子供の頃にそっくりだった私は

相当なおてんばで

弟がいじめられようものなら

その相手のところに行って文句を言って帰ってくるような子だった。

学校の帰りには友達を

大勢家に連れてきて

どろんこになって夕方まで遊んだ。

そんな私のことも母はいつも受け入れてくれた。

リュウマチは自己免疫疾患。

自分の関節を自分で攻める病気だ。

母の結婚してからの人生は

全て他人軸だったような気がする。

父のため、

親のため、

子供のため・・・

みんなが良ければそれでいい・・・

ずっとずっと

その自分のこころのズレさえ

見過ごし続けてきた結果がリュウマチだったのだと思う。

そして母の痛みは

どんどんとひどくなっていくのだった。

そんな母がリュウマチがきっかけで

朝日放送の早朝の番組に出ることになる。

2013.04.04

連載☆明るい介護④【私の持病その2】

私の両親の介護を通して

私が感じていること、

親がただあるだけで教えてくれることを

綴っていきます。

いま、導入部分を連載中。

私の鼻炎歴は長く、

小学校の時にはプールに入ると鼻炎が悪化する

という状態を繰り返し、

未だにお水が嫌いでほとんど泳げないという私がいます。

では鼻炎のこころって?

一口に鼻炎と言っても風邪の延長の時も

急性の鼻炎、それが長引くと慢性の鼻炎と移行していくわけですが

私の場合は慢性鼻炎。

そして治療とは別に、私のメンタルに焦点を当ててお話しますね。

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ほんとにまあ。

ということで。。。

私は両親に愛されたいがために

かなり努力し、

自分の思いとは違う方向で頑張っていたということを

大人になって気づかされることになるのです。

これは決して犠牲という言葉だけでは済まされることではなく

この一見犠牲に思える思考回路が

私の人生の大半を作ってきたとしたら

これはもう、とても愛おしい価値観、思考回路でもあるわけです。

なかなか介護に行かなくてごめんなさい。

でも。。。

この親子の思考回路が

やがて迎える介護生活に大きく影響するので

とっても大切なことなのです。

2013.04.03

連載☆明るい介護③【私の持病1】

商売家に嫁いだ母には厳しいお姑さんがいた。

毎日の買い物も

子供の使いのようにお金を渡され管理され

夜ふたりで出かけるなんてもってのほか。。。

玄関に草履を揃え

勝手口からこっそりでかけて

お好み焼きを食べにいくのが楽しみだったそうだ。

仕事も私を背負いながら

自営の父の仕事をずっと手伝っていた。

そのころは九州から雇用していたので

母はその子達の母でもあり

毎日、賄いもしていた。

よく一緒に嫁いでいた伯母と

コロッケを山ほど作っていたのを覚えている。

毎日、大勢の大人に囲まれて

合宿のような生活だった。

だから両親のお気に入りの子供になりたかった。

私は生まれてから

両親が夫婦げんかをしているのを見たことがない。

とってもとっても仲の良い

素敵な両親だとずっと思って生きてきた。

父はいつでもスーパーマンで

家族やたくさんの従業員の困り事を

あっという間に解決していく頼もしい尊敬すべき父であった。

私はそんな両親に

好かれたくていつもいい子でいたかった。

小さいながらにすごく頑張った。

そして褒めてもらうと

本当にうれしかった。

そんな私の持病は鼻炎だった。

2013.04.02

明るい介護②【母の持病 その1】

私の母は30代後半から更年期が始まり、

50代にはリュウマチと診断された。

関節があちこち痛くなり

家事もままならないことが多かった。

私は高校生の時から

家族の夕飯を作ったり、家事を手伝うことが多かった。

リュウマチというのは

自分の免疫力が自分の細胞を攻撃する自己免疫疾患。

敵でもないものに対して必要以上に反応して

自身の関節を過剰に攻撃、防衛する病気だ。

私のブログを読んでくださっている方は

もうお気づきだと思う。

病気の有り様はまさにその人の有り様。

つまり今だからそう思えるようになったが

母はずっと自分の心を攻撃してきたことになる。

母はもともとはとっても活発な人で

子供時代は自他共に認めるおてんば娘。

中学高校時代は足が早く、

大阪府の大会に出たり

そのとき入っていたソフトボール部では

アンダースローのエースだったという。

体育大学への推薦の話もあったが

当時の祖父母は農地を持っていて家には牛や鶏もいた。

女の子が大学なんて。。。という時代で

卒業後は鉄鋼の会社の事務員になった。

今も梅田でその看板を見ることができる。

ここで働いていたのか。。。と思いながら通ることもある。

当時も社長に可愛がられて秘書のような仕事をし

「銀行の合間にちょっとデパートに寄ってみたりした」

などどいたずらっぽく思い出話をしてくれる。

結婚はいわゆるお見合い。。。というか見初められ婚というか。

父の兄と母の姉がもともと結婚していて

お姑さんが商売のおうちだから

嫁同士がもめないように・・・と妹を嫁に。。。と言ってこられたそうだ。

姉の嫁ぎ先に断ることもできず

付き合っている人がいたわけでもなかったので

そう言ってくださるのならと父と結婚した。

その時から母の商売家の嫁生活が始まることになる。

2013.04.01

タッキー先生の明るい介護①

昨年の10月3日の母の手術から

母だけではなく、父の看病も始まり

今年に入って本格的な介護生活にはいった両親。

そこには年老いていく中で

一生懸命に生きているキラキラの両親の素顔が覗く。

私が介護生活に入ってから

両親をどう捉えるようになったか

自分自身の家族の中での役割

生きるということの意味など

たくさんの思いを

備忘録として残しておくことにする。

これはおそらく今後の私の人生の大きな宝物になるはずだから。。。

そして介護の話をすると

「大変ねー」と言われずに

「おもしろいねー」と言われる私の介護に対する価値観。

自然な思いをみなさんにお伝えすると

それはひょっとしたら同じ介護者の方のお役に立つ思考回路も

含まれているかもしれないと思う。

さあ。日々のおもしろ介護ネタ。。。

語ってまいりますよ~。


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