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2013.04.12
我が家の母の入院に関しては常に父もセットで
考えていかなければならないという状況がその後続いて行きます。
そしてこの「腱の手術」の入院に関しては
父の体力の限界を超える2ヶ月半という時間を要してしまうことになるのです。
この期間、時間が
両親を要介護へと追い込んでいきます。
話を母に戻します。
母の右手の腱は主治医であり執刀医である先生のおかげで
見事に成功しました。
左手首の内側の腱を移植して
縮んでしまった右手の腱を伸ばしながら
縫合していくという相当大変な手術だったとお聞きしました。
手術時間も4時間くらいかかったでしょうか。。。
父と弟と私の3人。
何を話すということもなく
なんとなく不安そうな父をなだめながら
手術が終わるのを待ち
先生の術後説明を受けました。
先生からは手術の成功と
どのようなものであったかの説明を受け
ほっと胸をなでおろしました。
ところが
先生の口からこんな言葉が飛び出したのです。
「手術中、手違いで薬指と小指に少しやけどを負ってしまいました。
そちらの治療も責任を持ってこちらでさせていただきます。」
やけど?
どうやら電気メスが手術台の上にあった水を伝って加熱し
術中の母の薬指と小指に触れていたようだ。
麻酔のかかった母は何も感じることはなかった。。。
けれどやけどなら1週間もすれば治るはず。
勝手にそう思い込んで手術の成功に安堵した私たち。
ところがそのやけどとリハビリが
母の入院を長引かせてしまうのだ・・・。
2013.04.11
母は入退院を結構繰り返している。
まずは私の高校受験直前に盲腸炎で入院。
肝炎で「腹水が溜まった」と宣告されたときは
母の余命を覚悟したが友人の紹介で転院したら
極端なカリウム不足が原因だった。
耳下腺が腫れて
良性のリンパ腫のときも腫れている場所が神経を圧迫していて
顔面麻痺の後遺症を匂わせられたが無事だった。
白内障の手術のときは
入院中交互に両目の手術をした。
リュウマチがひどくなって
免疫抑制のお薬を服用するようになってからは
すぐに胃腸炎を起こし入院を繰り返した。
母が入院すると
最低は2、3週間~2ヶ月くらいかかる。
まだ、うちの子が小さい時は
私も体力があったので
子供を病院に連れて行くなんて。。。と言われながらも
連れて看病に行ったものだ。
当時から病院は完全看護で
家族が付きっきりになる必要はなかったが
父が喜ぶので(そう。母もだけど父が喜ぶのだ)
母の好物などを持って通っていた。
そして同じく父の身の回りのことを
全て完璧にこなしていた。
これも父が喜ぶからだった。
その当時は「両親思いの良い娘」と
いつも言われていたし
私は両親が好きだから。。。と思っていた。
でも今思えば果たしてそれだけだっただろうか。。。
もちろん、両親は私の愛すべき人であるが
それ以上の愛に枯渇した「恐れ」の感情が下敷きになっていたかもしれない。
それが私の鼻炎の症状を左右した。
その毎日通うという行為。
実は自分で築いた会社を
息子(私の弟)に譲り、会長に退いたころから
父の担当に変わっていた。
そう。。。
父は入院中の母の側に一日中いるのだ。
面会時間なんてお構いなし。
検査や入浴、診察のときもずっと付き添っている。
病院では超有名な「おしどり夫婦」と認知され
看護師さんや職員さんの間では知らない人はいないほど。
今まで自分の会社に費やしてエネルギーを
全て母に注ぎ込む父が現れた。
2013.04.10
私の両親の介護を通して
私が感じていること、
親がただあるだけで教えてくれることを
綴っていきます。
いま、導入部分を連載中。
母の症状はどんどん進み、
掃除をするにも雑巾は絞れない。
少し頑張ると関節が腫れてしまう。
おまけにステロイドの副作用で
顔がムーンフェースになり、
腹部もぽっちゃり。
その後、約10年で
順番が決まっていたように
骨粗鬆症になる。
円背がひどく
食べるものも喉にひっかかる。
唾液も出にくく味もわかりにく。。。
次々出てくる症状に
言えばいうほど薬が増えて
朝から8粒、夕方は6粒の薬の処方。
当時は母もしっかりしていて
全ての薬を製剤名で言えるくらい
自分の薬を把握していた。
ところが数年前、
ぽろっと父が言った。
「お母さんは薬を飲むのに30分以上かかってる。
何かがおかしいと思う。」
両親は二人暮らしで
服薬管理できていないことを
知らなかった私。
それからは薬を一包化してもらうようになった。
だんだん認知力が落ちて行く母。
これも仕方ないが
老いて行く二人にこちらも順応が大切だと感じはじめがのが
3年くらい前の話だ。
そして昨年の夏、
事態が急変した。
母の右手の中指、薬指、小指が
動かなくなった。
リュウマチによる滑膜の増殖で
右手の腱が3本切れた。
修復は難しく
入院で腱の手術を受けることになった。
すごく難しい手術で
元につなげるかはやって見ないとわからないと
言われたが母は頑張った。
そして手術は成功!
だけどそこからが介護の始まりだった。
2013.04.10
私の両親の介護を通して
私が感じていること、
親がただあるだけで教えてくれることを
綴っていきます。
いま、導入部分を連載中
母の症状はどんどん進み、
掃除をするにも雑巾は絞れない。
少し頑張ると関節が腫れてしまう。
おまけにステロイドの副作用で
顔がムーンフェースになり、
腹部もぽっちゃり。
その後、約10年で
順番が決まっていたように
骨粗鬆症になる。
円背がひどく
食べるものも喉にひっかかる。
唾液も出にくく味もわかりにく。。。
次々出てくる症状に
言えばいうほど薬が増えて
朝から8粒、夕方は6粒の薬の処方。
当時は母もしっかりしていて
全ての薬を製剤名で言えるくらい
自分の薬を把握していた。
ところが数年前、
ぽろっと父が言った。
「お母さんは薬を飲むのに30分以上かかってる。
何かがおかしいと思う。」
両親は二人暮らしで
服薬管理できていないことを
知らなかった私。
それからは薬を一包化してもらうようになった。
だんだん認知力が落ちて行く母。
これも仕方ないが
老いて行く二人にこちらも順応が大切だと感じはじめがのが
3年くらい前の話だ。
そして昨年の夏、
事態が急変した。
母の右手の中指、薬指、小指が
動かなくなった。
リュウマチによる滑膜の増殖で
右手の腱が3本切れた。
修復は難しく
入院で腱の手術を受けることになった。
すごく難しい手術で
元につなげるかはやって見ないとわからないと
言われたが母は頑張った。
そして手術は成功!
だけどそこからが介護の始まりだった。
2013.04.06
私の両親の介護を通して
私が感じていること、
親がただあるだけで教えてくれることを
綴っていきます。
いま、導入部分を連載中。
その番組の名前はもう、忘れてしまったけれど
「おはよう朝日です」の前に放送している番組だった。
なぜ、母がTVに?
母の主治医がTVで取り上げられた。
その主治医の診療の仕方がユニークだったのだ。
その先生は患者との交換日記をしていた。
診察から次の診察まで約1ヶ月。
その間患者さんが気づいたこと、
病状の変化、思いなどを好きに書いていいというノートがあった。
先生は診察の度にそれを読み
その場で簡単なコメントを書き込んでくれる。
その先生にとって
母は交換日記をする患者さんの中で
とっても優等生だった。
人体図を描き
どこが痛みがひどかったか書き込み
その時の気持ちを素直に表す。
当時は取材された母に
「TVに出るなんてすごいねー」
などど言っていたが
今、思えば
ここでも「主治医の期待に応える母の姿」があったのだとわかる。
取材されたとき
私もじっくり読んでみた。
何冊もある交換日記には
「痛い」という文字があちらこちらに書かれてあった。
つらかった。
こんなに毎日痛かったのか。。。
それを人には言わず
毎日頑張っていた母。
ノートを読みながら「ごめんね。。。ごめんね。。。」
となぜか謝り涙する自分がいた。
解っているようで
母の気持ちなんてちっともわかってなかったんだ。
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