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2013.04.24

連載☆明るい介護⑲【父の入院4】

びっくりするくらいの勢いで起き上がった父は
娘婿を見てゆっくりと言った。

「こんな夜中にすまんかったなあ。
大丈夫やから家で休んでくれ。」

父のプライドを見せられた。

けれどやはり腰痛はひどくなるばかり。。。

ついに病院に行くことを受け入れた。
よほど痛かったに違いない。

結果は腰椎圧迫骨折だった。

軟骨を埋める手術を勧められ
家族で話し合うために
一旦返事を保留して帰ってきた。

手術してもしなくても
これから大変なことになる。

弟と私だけの話し合いを持つことにした。

2013.04.23

連載☆明るい介護18【父の入院3】

父は腰が痛くても
毎日がジャンクフードでも
母の側に居たかったし私たちと夕飯を食べたかった。

ただ、それしか考えていなかったかもしれない。

父の気持ちを
わかっているつもりでいただけで何もわかっていなかった。

最後に父が転倒したのが11月のこと。
北海道に初めて講座に出かける前々日のことだった。

夜が心配で
泊まって一緒に寝たが
どうも痛くて痛くて
横になることができずもたれ椅子に
何度もからだの向きを変えながら座っていた。

夜中の3時ごろトイレに立った父が
思いっきり転んでうつ伏せになったまま
立ち上がれなくなった。

手を差し伸べて
起こそうとしたがピクリとも動かない。
下手に触ると痛いと連発する。

何のために泊まったのか。。。
痛がりもがく父に何もしてやれない。
どこを持てば起き上がれるのかさえわからない。

焦り。。。

どうにもならなくて
旦那さんに電話した。
すぐに来ると言ってくれた。

私はホッとした。
10分で来てくれるはず。

父にそう伝えると
俄然起き上がろうとしてもがき出す。
あんなに必死の父を見たことがない。

娘婿に無様な姿は見せられない!!

その一心だ。

そして、、、
ついに起き上がった。
うそのようだった。

「ピンポーン」
旦那さんの到着に間に合った。。。

2013.04.22

連載☆明るい介護⑰【父の入院2】

明るい介護⑫【父の入院1】

でも書いたが

母の入院の長さが父の体力を奪っていく。

3年くらい前から

母がリュウマチの免疫抑制剤のコントロールが悪くて

胃腸の感染症にかかる事が増え

胃腸炎で入院。。。ということが3度ほどあった。

毎回父が病室に付き添い

もう父の体力が持たない。。。あせるっという

ぎりぎりのラインが「入院3週間」。

そしていつも3週間で退院して

ほっと一息。。。ということが繰り返しあった。

今回もそれを主治医に話てあったので

術後も含め1ヶ月以内の退院を目指していた。

ところがやけどのせいで

入院期間がどんどん延びていく。

まず、

母の入院中、私と弟は毎夜ご飯に付き合わされる。

付き合わされるというのは

家のご飯でなく

外食。。。ということだ。

毎晩の外食は

健康な私たちでも疲れてくる。

だから父にも家で作ったご飯を食べるように勧めた。

そして

お嫁ちゃんと私が交代で作った。

私たちはそれで外食の毎日よりは

少し楽になったが

一人で食べる夜ご飯が続いて

父がなんとなく元気がなくなっていくのを感じていた。

そしてある日、1回目の転倒。

日に日に元気がなくなっていって

ついに毎日母の病院に行くことさえ

体力が追いつかない状態になっていく。

母を毎日心配する父。

それでも私は

病室にへばりついて

腰の痛みが増していくよりましだろうと思っていた。

この「元気のなさ」という「SOS]を

見落としたことが

決定的な転倒、腰椎圧迫骨折につながってっしまう。。。

ごめん。。。お父さん。。。

2013.04.21

連載☆明るい介護⑯【母の入院8】

主治医の話はこうだった。

当初、母のやけどは電気メスの熱が伝わった水で

やけどを負ったと聞いていたが

そもそもやけどの発覚が遅かったこと。

その後、十分に傷口が冷却されていなかったこと。

炭化した傷口で傷の深さがわからず

当初軽度だと思われたやけどが骨まで到達するほどの

重度のものだと分かるまでに時間がかかったことなどが

説明された。

 

その後、手術の手順について

院内で話し合いが行われ

今後このようなことがないように

取り決めが行われたということだった。

 

**************

 

病院の対応は本当に丁寧で

謝罪の気持ち

今後の手術に対する姿勢も伝わったので

私たちはもう、それ以上、追求することを止めた。

 

ここで一旦話は円満に終わったはずだった。

 

**************

 

とにかくそんな事情で母の入院が長引き

迷惑を被ったのは母だけでなく

実は父のそれも相当なものだった。

 

このあと、父が急激に介護の道へと進んでいってしまう。。。

2013.04.20

連載☆明るい介護⑮【母の入院7】

そのからだの震えは

母の手の指の骨の露出というショッキングな光景のせいだったかもしれない。

なぜここまで放置されてきたのかという怒りだったかもしれない。

そしてそれに気づかず

リハビリを半ば強要していた自分の罪悪感だったかもしれなかった。

とにかく、

事の重大さを把握できていなかったことに愕然とした。

毎日だ。。。

ほぼ毎日母の看病に通っていたのにだ。

皮膚科の先生は

手術の不祥事をそのまま押し付けられた格好で

私からの詰問にちょっとひるむのがわかった。

麻酔のせいで

母がやけどに気づくこともなく

その後も

我慢強さと寡黙さが裏目に出て

決してやけどの辛さをアピールすることもなかった。

手術は成功したかもしれないが

私の中で母の入院は振り出しに戻った。

私の「医療過誤」という言葉に反応して

やっと主治医から

やけどについての詳細の説明がしたいとの連絡が入った。

その説明を弟と一緒に受けに行った。

その車中で弟と話したこと。

事実を検証すると

1.主治医は腕の良い若手の先生で将来も

たくさんのリュウマチ患者を救うことの出来る人だということ。

(本当によく診ていただいて良い先生だった。)

2.問うべきは手術の体制であって

執刀医が集中して手術に当たっているときは

チームとしての看護師さんたちのあり方や

手術の進行の仕方に問題がありそうだということ。

3.これはとっても大事なこと。。。

いや最も重要なことだと思うが

母の治療はまだ病院に委ねられているということ。

この状況から言って

主治医を責めるのはやめよう。

今後の母への手厚い治療をむしろお願いしようという話に

落ち着いた。

呼ばれた部屋で待つとき、

そして先生が入ってこられたときには

かなりの緊張感があった。

そして主治医の話が始まった。


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