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2016.05.04
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電話の内容はこうだった。
「お母さんの栄養状態からすると
施設内だけの対応では
立ち行かない状況になりました。
至急入院させるか
このまま治療をあきらめ
施設で看取りに入るか
すぐに決めてください。」
いよいよ、その時が来たか・・・。
けれど答えは決まっていた。
食欲が落ちて
意欲も言葉も無くなった母の下肢は
むくみと浸出液でパンパンになっていた。
足に紙おむつを当てなければならないほど
液体が体外にあふれていたのだ。
おそらく、心臓のむくみ
慢性の間質性肺炎に加えて
食べられなくなったための栄養失調が
原因だと考えられた。
多臓器不全を起こし始めていたのだと思う。
「施設で看取ってください。
全ての治療を止めていただいて結構です。」
言っている自分の声が
震えているのがわかった。
すかさず、弟がなんと返事したかを聞いてみた。
弟も同じことを言ったという。
当時、私は全国飛び回っていたので
自宅に戻っているときは
極力施設に面会に行っていたが
弟は毎日、欠かさず両親の顔を見に行っていた。
だから弟の意見を最優先するつもりだった。
投薬を止め、
栄養や水分補給の点滴なども一切せず
口にできるものをできるだけの生活が始まった。
意識はもうろうとすることが多く
会話もままならない状況になっていったが
スイカのジュレなど
自分の好物が口に運ばれると
時折、この上ない笑顔を見せることもあった。
治療を止めて1か月を過ぎるころには
下肢のむくみや浸出液も自然と少なくなっていった。
亡くなるまでの2か月の間、
調子の良いときは、施設の職員さんに
少し反応して受け答えしていたそうだが
母が私に話しかけてくれることは無かった・・・。
この一連の出来事が
自分の退院後すぐの話だった父は
驚くべき行動に出るようになった。
2016.05.03
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母は昔から父の言うことに逆らったことがない。
多分たくさんたくさん我慢してきたと思う。
今でこそ、からだの通訳者だから理解できるが
母は病気のデパートのような人だったが
症状はすべて左側に出ていた。
「からだ占い®」では
左は「受動」と読む。
つまり、母は現実を受け取れなくて
その症状を左側に集中して出していたと考えられる。
それに一番の病気はリュウマチだった。
リュウマチは自己免疫疾患。
自分を自分で攻撃する病気だ。
つまり、いつも自分が悪いんだと
自分を責めていたと想像できる。
父の入院は40日続いたが
実はこれは母にとってはチャンスではないかと
思っていた。
父はいつも「お前のため」と言いながら
母をコントロールしていた。
だから一度父の束縛から解放してやりたいと
ずっと思っていたからだ。
この40日の別居はチャンス・・・のはずだった。
そう。そのはずだったのに
母は父の入院を境に
どんどん元気がなくなっていった。
表情も無くなり、言葉も少なくなり
ごはんもだんだん食べなくなっていった。
父の入院15日後のこと、
拙書「からだの声、聞いてる?」の
東京出版記念講演会の最中
1本の電話が・・・。
2016.05.03
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おととし(2014年)の七夕のこと。
私は福島の「おとぎの宿」という素敵な旅館のイベント出張中だった。
初めての著書「からだの声、聞いてる?」の見本が出来上がって
そのイベント参加の皆さんにお披露目していた最中のこと。
弟から1本の電話。
「お父さんの様子がおかしい。
微熱もあるが施設もケアマネも様子を見ましょう
と言う。
でも、嫌な予感がするねん・・・。」
福島にいる私には何もできない。
でも、大体こんな時に限って・・・なのだ。
初めての著書の初お披露目の日。
そんな日に限ってなのだ。
結局、弟の判断で救急車を呼んで
病院に搬送したら
左の肺に大量の水が溜まっていたことが判明。
そのまま入院。
管を刺して肺の水を抜きながら検査をするという。
その後の検査で、抜いた水は透明で
特に悪いものでは無いとわかるが
どうして溜まるのかは不明のまま40日の入院生活が続く。
当時83歳の父。
肺も心配だが、入院の間に
せん妄が始まったり、長く横になることで
せっかく介助してもらえばトイレに行けていたのに
それもオムツに逆戻り。
長引けば長引くほど
ADL(自分でできる機能)の低下は免れない。
そんな心配をしていたら
伏兵はほかにいた・・・。
一緒に入所していて元気だった母の様子がおかしいのだ。
どうやら父がいないことが原因らしい。
こちらの方が緊急を要するということがわかった。
2016.05.01
少し長くなるかもしれません。
ご興味の無い方はスルーしてください。
もう10日前になりますが普天間先生の
『第六感』を磨くとすべてに迷わなくなる!出版記念講演
懇親会にて、今回の地震について皆で話をしました。
普天間さんはこの地震を「地球の身震い」と
おっしゃいました。
普天間さんと講演会の前に
地震の話をしていました。
私たちは地球からできた「地球の借り物だから」
私たちが知っていて地球が知らないことなんて
何もないよね・・・と。
私は自分の本「からだの声、聞いてる?」の中で
自分のからだの中で起こっていることは
自分の身の回りの家族、社会、環境で起こっている
と書かせていただいています。
これをからだと現実の「フラクタル(自己相似形)」
と言います。
ではこの熊本の地震は
私たちにとって何の「フラクタル」なんでしょう?
私は今、私たちが一番考えるべきことは
ここなんじゃないかと思っています。
私は阪神淡路大震災で家が全壊しましたが
正直復興するためには
被災した本人が意を決して立ち上がるしかないと
思っています。
助けていただいている間は傷の修復期。
本当に動けるのは自分が自力で立ち上がると決めた時だけです。
誤解を恐れず言うと、逆に被災していない人には
この気持ちは絶対にわからないと思っています。また、
被災していない人は味わわなくて良いとも思っています。
国や県としてやるべきこと
民間としてできること
これをすることは人としても当然のことで
できる人ができるだけやればよいと思うのですが
それでは私たちのような一般の人には
被災された方に何ができるのでしょうか?
私は、私も含め、ほとんど何もできないと思っています。
では私たちにできることは?
それはやっぱり自分のことだと思うのです。
この地震で自分が感じた感情は
自分の実生活のどこに感じたことなのか。
食料が必要!と思った方は「食」を大切にしている人。
医療が必要!と思った方は日常でも
医療の大切さを感じている人。
癒しが必要と思う方は自分も「癒し」が必要な方。
お金が必要と思う方はまずは「お金が大事」と思っている方。
怖い!と思った方は自分の生活の中で何が怖い?
不安!を感じた方は自分の生活の中の何が不安?
その自分のフラクタルを見つけて
一つひとつ困りごとを認識し
自分が日常に何を感じているのかを知ることで
実は大体のことは落ち着いて行くのだと思うのです。
私たちの日常が落ち着いたら
それは熊本にも伝わって
熊本も落ち着いていくのです。
直接その立場に無い人間は
想像でその立場の中に巻き込まれてはいけない。
むしろ客観的に自身の周りを整えていくことで
被災地の支援をしていくことが大切。
地震が起きたことは事実。
起きたという事実に対して
自分のジャッジがどう働くかで
その事実の意味は良くも悪くも
いろんな意味を持ち始めるのです。
ジャッジよりフィール。
このことを20年前に被災した私に教えてあげたい。
これを知っていたら
苦しさ、悲しさはもっと違っていたかもしれない。
けれどこんな風に説明できないけれど
どこかでそのことが分かったから
今は元気に笑って生きていけているのだと思う。
そしてやっぱり一番の薬は「祈ること」
一日も早い復興を願うためにも
自分を整え、祈り続ける。
きっと、受け止め方ひとつで
また幸せな日が必ずやってくることを経験で
知っている私より。
これが私の「大震災」です。
2016.05.01
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両親の本格的な介護が始まったのが約3年前。
前職が「福祉用具」販売の会社で
介護予防教室を年間100本くらいやっていた私にとって
両親の介護は頭の中でわかっていた知識だけでは
図れないことだらけだった。
介護はその渦中はなかなか
それと向き合い、記録として残していくことは
自分の生き様と重なり
辛かったり、悲しかったりするものだ。
昨年秋に亡くなった母のことも
まだ書けていないが
今年に入ってからの父の様子を
今、書いておかなければ・・・と思う自分がいる。
生死をさまよい、母の元に逝くのだと
思っていた父のV字復活。
その背景にある父の想いと
ちゃんと向き合うことが
父の私への最後の教育なんだと確信したからだ。
これから少しずつ
書き溜めていくことにしようと思う。
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