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2013.04.30

連載☆明るい介護㉔【父の病歴4・脳梗塞?】

阪神淡路大震災被災後、

数か月の実家での居候生活の後の仮住まい。

新婚の時よりも狭い部屋に家族5人

ほんとに肩を寄せ合い生きてきた。

震災後は住む場所の確保も難しく

小さな50平方メートルの部屋の家賃は15万円もした。

私たち家族の生活が落ち着いてきて

土地の買い主ができたころ

その売れたお金で

残っていたローンの残債を済ませ

我が家もやっと家を建て替えるところまで落ちついた。

15年前のことだ。

全壊からの復興としては

本当に順調で、ありがたい。。幸せなことだった。

これも多くは父の尽力によるものだった。

感謝して今の我が家に引っ越してきて間もなく

父から電話がかかってきた。

「なんだかたばこを吸うと

手からタバコがするりと落ちてなあ。。。

シャツのボタンも留めにくいし。。。

今日は今から大事な会合があるから

明日でも医者に行ってみようかな。。

付いてきてくれるか?」と。

その話を聞いた瞬間思い浮かんだ。

「脳梗塞だ」

父にはダイレクトに言わなかったが

すぐに病院に行こうと言った、

父は

「ちょっと疲れているけれど

そんなにあわてて行くまでもないだろう。」

と返してきた。

やっぱり仕事人間の父には通じないか。。。

「お父さん、

今行かないと取り返しがつかないことになるかもしれない。」

そう言って

強引に病院に連れて行った。

案の定、診断は

軽い「脳内出血」だった。

2013.04.29

連載☆明るい介護㉓【父の病歴3・胆石】

胆石はコレステロールを摂りすぎることや

肥満などが原因で胆嚢の中に石ができる症状。

原因はおそらく外食の多い父の不摂生だったと記憶している。

激痛のあまり

私に電話してきたので

すぐに車を出してもらって病院に連れて行った。

そしてエコーでかなりの大きさで

胆管を塞いでいたため

胆嚢ごと切除手術を行った。

手術で取り出した結石は

直径2cmぐらいの石が3つ。

かなり大きく、つるっとまん丸で

不謹慎だが結構かわいかった。

最近、当時を思いだし、

父の胆石のこころを考えてみた。

胆嚢といえば肝臓の関連臓器。

肝臓は「怒り」の感情と密接な関係がある。

その胆嚢で胆汁を固めて石を造っていたとしたら

それは「怒り」の感情を溜め込んでいたと言えるのではないか。

「怒り」のパワーは他の感情のパワーの比ではない。

人が怒った時には

ものすごいパワーを発揮する。

震災後の父には

明るい介護㉒【父の病歴2・胆石】
にも書いたように

ものすごいパワーが必要だった。

しかもいつもスーパーマンで

「なんでも出来る人」という他者からの見方を

裏切ることなんてできるはずもない。

まるで肝臓そのものだ。。。

分泌・解毒・貯蔵といった大切な働きをする肝臓には

間違えてはいけないという強い意志が宿っている。

それは当時の父の姿と

全くと言っていいほど同じ印象を与えるということに

気づいてしまった。

そしてからだの外に出てきた

まん丸のかわいい石は

父の「いい人だってわかってね」という

乙女心にも思えた。

2013.04.28

連載☆明るい介護㉒【父の病歴2・胆石】

18年前

阪神淡路大震災のとき

弟と私は父が建てた5階建ての同じマンションに住んでいた。

少しややこしいが

私は一旦分譲して他人が買った物件を買い取り

弟は賃貸部分に住んでいた。

全壊だった。

下駄履きマンションで

1F部分が駐車場スペース

その一部に

弟が運営していた業務用スーパーがあった。

私はドラッグストア管理薬剤師をしながら

休日にはお店を手伝ったりもしていた。

地震が起きたのは朝の5時代。

当然、店舗に人は誰もいなかった。

だからよかった。

我が家の車、三菱ディアマンテはぺっしゃんこ。

店舗も押しつぶされてしまったが

誰もいなかったので人災はなかった。

うちの家族と弟夫婦は

10分ほど離れた実家に歩いて避難。

そのまま数ヶ月総勢9名での共同生活が始まる。

当時自分の居場所がなくなり

子供の生活を心配することで気持ちがいっぱいいっぱいだったが

父の気持ちになると

相当な負担だったと思う。

自分の子供たちが一度に家を失った。

しかも自分が建てたマンションに住んでいて被害に遭った。

店舗は父の経営だったので店も潰れた。

***********

子供たちの住むところの心配。

生活の面倒。

店舗の整理。

倒壊マンションの後始末。

***********

私たち夫婦は倒壊マンションの住宅ローン返済のため

実家にいる間の生活費はほぼ両親に甘え

給料のほとんど全額を毎月、返済に当てた。

倒壊したマンションの整地は

地盤のゆるみを心配した近隣からの反対の交渉に

父があたってくれた。

銀行を通して整地した土地の買い主を探し

被災した居住者への分配に奔走した。

失った店舗は

他所の父の会社が所有する土地に再建。

もちろん、会社の得意先に被災したところも多数あり。。。

いろいろ考えると

毎日寝ていなかったのではないかと思う。

こうやって書き出しただけでも

当時は自分のことに必死だったが

どれだけ、父に甘え、助けてもらったか

改めて父の偉大さを確認する。

そんな状況の中にあっても

私がローン返済のために

仕事を増やし、必死で借金を返していく姿を見て

「お前はえらいなあ。。。ええ娘や」

と言い続けてくれた。

その2年後くらいのこと。

父が夜に痛みでのたうち回ることが起こる。

胆石だった。

2013.04.27

連載☆彡明るい介護㉑【父の病歴1・白内障】

さて、父の本格的な話に入っていく前に

父の病歴から父を客観的に見ていこうと思う。

大きな病気をしたことがない父だったが

最初の入院は25年くらい前の「白内障」だったと記憶している。

白内障は高齢になると

多くの方が経験し、手術される病気。

今は日帰り手術も当たり前。

症状から言うと

加齢によって血液供給量が減少することによって

眼球の水晶体が硬化する病気だ。

ただし、視点を意識すれば

焦点を合わすことは可能な状態。

ということは

それが手術が必要になるということは

どうやらその視点の合わせ方に

問題がありそうだ。

物事にフォーカスするというが

フォーカスするには

柔軟な見方をしなければ

いろんな視点をもつことができないということ。

つまり、これは心も硬くなり

柔軟性を失っているということなのだ。

19歳で事業を興し

一人で会社を大きくしていった父。

中小企業の会社の30年以上の存続率は0.02%だそうだが

今で創業64年になる。

正に菜種を絞って食用油として販売するところから始まり

業務用から家庭用の対応。

そして冷凍食品の扱いも同業者の中でも最も早い方で

有名デパートのお惣菜の店舗も

現場調理を徹底して誰からも愛されるお店を作り

一時は10店舗以上運営していた。

そんな時代の先を読み続けてきた父が

少し歩みを緩めていった時期と一致する。

それでも

家族の中ではいつもスーパーマンで

困り事は仕事のことでも

家庭のことでも

常に父が主導権を握って解決してくれた。

30代になっていた私にとっても

もちろん、非の打ちどころのないパーフェクトな父だった。

私の最も尊敬する人であり

心の頼りの人だった。

2013.04.26

連載☆明るい介護⑳【父の入院5・覚悟】

弟との話し合いで確認したことはたったの二つだけ。

☆お父さんの意思を尊重して

手術を受けても

受けなくても

二人で万全のサポートをする。

☆絶対私たちの意見を押し付けない。

車椅子生活になっても

その生活を何とか支えていくしかない。。。

そう覚悟して

主治医から手術を勧められていることを

父に説明した。

私情を交えずに伝えることは

結構大変なことだった。

いずれにしても

父が快く受け入れる方を選択してやりたいけど

どちらが正しいかなんて

私たちにも答えがだせないことだった。

ところが

私たちの心配をよそに

父の答えは明快だった。

「手術はしません」

生まれてきて82年。

今まで自分を支えてきてくれた背骨に

メスを入れることは

神様の領域を侵すことです。

そんなことをして

生きていくことに意味はありません。。。。

はっきりとそう言ったのです。

からだに対する専門知識が

あるわけでもなく

整体やチャクラのことなど

何も知らない父が

迷うことなくそう言い切ったのです。

私は父に

生きること、からだと向き合うことの大切さは

専門知識など関係なく

もともと

私たちの魂なら知っていることなんだと思い知らされました。

からだのことをお話している私が

一番伝えるべきことを

父の口から聞いたのです。

介護が「明るい介護」になったのは

この時からです。

老いていく父から

残される私や弟へのメッセージが

日々の生活の中に散りばめられていることに

はっきりと気づいたのです。

父への感謝で胸がいっぱいになった瞬間でした。


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